伊那県
飯島陣屋から尾張藩飯島取締役所へ
江戸時代、ここ飯島町には「飯島陣屋」がありました。江戸幕府代官が幕府領(天領)を統治する拠点となったところです。
慶応4(1868)年1月3日、鳥羽・伏見の戦いを端緒として新政府の東征が始まります。その東山道官軍の通過によって信濃国内の幕府領は「天朝の御料(天皇の領地)」となりますが、それを執り行ったのが尾張藩でした。徳川御三家の尾張藩に、信濃国の取り締まりをさせることによって、天朝領化を促進しました。同年2月17日、新政府は尾張藩に、信濃の幕府領を没収して支配するように命じました。3月7日に飯島陣屋は、天皇に忠誠をつくすという誓約書を出し、これをもって飯島陣屋が廃止となりました。翌8日には尾張藩が旧飯島陣屋を「尾張藩飯島取締役所」とし、伊那県が発足するまでの約半年間、尾張藩による取り締まりが行われたのです。
青松葉(あおまつば)事件
尾張藩と言えば徳川御三家のうちのひとつ…大変大きな藩でした。
御三家にもかかわらず1868(慶応4)年1月20日~25日にかけて、尾張藩では佐幕派(幕府を支持する人のこと)に対する弾圧事件が起こりました。それが「青松葉事件」と呼ばれているものです。
それまで京都で政務をしていた、尾張藩14代藩主徳川 慶勝(よしかつ)が朝命により1月20日に帰国した直後、重臣を含む14名を斬首、家名断絶・永蟄居などの処分は20数名に及ぶという大事件が起こったのです。
…実は慶勝帰国前の1月15日、朝廷から「交通の要所である尾張藩内の佐幕派を粛清(排除すること)し、近隣の諸藩が朝廷側につくよう説得せよ」という命令が出ていました。朝命に背くわけにもいかず、苦悩の末慶勝は佐幕派の弾圧を決行したと言われています。慶勝はこれを尾張藩の内紛として収拾し、藩士に口止めをしました。そして「勤皇(きんのう)の者誘引」のため、遠江(とおとうみ)・駿河・美濃・信濃・甲斐などの近隣国に藩士を派遣しました。その後東山道官軍が信濃へ入り、幕府領の「天朝化」を行い、2月17日には信濃にある旧幕府領の管理を新政府から命じられました。
尾張藩取締所から伊那県へ
1868(慶応4)年8月2日、京都の公家・北小路 俊昌(きたこうじ としまさ)が知県事(今でいう県知事)に任命され、正式に伊那県が誕生します。同月13日には尾張藩の信濃管理が解かれていますが、実際すぐ北小路知県事が着任したわけではないため、依然として尾張藩取締役所による管轄が続いていました。10月3日に北小路知県事が飯島に着任し、伊那県の名による法令などが出されていますが、実際は尾張藩取締役所の手を経て布告されたものでした。そして伊那県は明治2年2月以降、信濃国内各藩の藩士や、各旗本家臣を県官として採用し、同年5月に県組織を確立させ、尾張藩の取り締まりを引き継ぎました。
当初の県官は、落合 源一郎、村松 文三などが中心となり、信濃国内諸藩出身の県官は落合らによって伊那県官として採用されました。
飯島に県庁が置かれたワケ
旧幕府代官陣屋は飯島のほかにも中野、中之条、御影にありましたが、飯島を県庁とした理由は、伊那谷に新政府の味方である平田派の国学者が多かったためと考えられます。知県事北小路 俊昌、判県事落合 源一郎、村松 文三、丸山 徳五郎、北原 稲雄など、当初の伊那県は国学的色彩が極めて強い体制でした。
彼らにとっての明治維新とは、「御一新(民衆のための世直し)」でなければならなかったようです。
伊那県の県域は信濃の北端から三河国に及んで南北に長く、飯島の県庁は結果的に県内のほぼ中央に位置していました。
贋二分金が出回る
初代知県事北小路俊昌をはじめとして、伊那県の役人には『江戸幕府の時代より良い世の中をつくるんだ!』と意気込んだ若者たちが大勢登用されました。住民が安心して暮らせるよう、貧しい庶民に手厚い行政を目指していました。
ところでこのころ、二分金という金貨の贋金が全国に出回ります。戊辰戦争の軍資金を調達するため、倒幕派諸藩のほか、東北諸藩も発行したと言われています。東山道官軍の通過の際に贋二分金が流入し、特に伊那谷へは、近江商人が生糸の買い付けなどのために持ち込んだようです。全国の贋二分金の5枚に1枚は伊那谷にあると言われるほどでした。
二分金とは、一両の半分の値打ちの貨幣です(1両=4分=16朱)。贋二分金は、銀・銅・真鍮の台に金をかぶせただけのものでした。
このお金は庶民にも多く使われていたため、贋二分金の蔓延は連年の凶作で困窮する庶民の生活をさらに直撃しました。
1869(明治2)年7月2日には飯田で「二分金騒動」と呼ばれる大暴動がおき、8月に入ると伊那県下でも騒動が発生しています。
時のお金の種類
金・銀・銭の3種類のお金がありました。
金貨
両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)小判1両=4分=16朱
…ということは、二分金とは1両の半分の価値
(注意)繰り上がりは4進法
銀貨
匁(もんめ) 銀1貫=1000匁
銭貨
文(もん) 銭1貫=1000文
伊那県商社事件
新政府は明治2年9月、「贋二分金100両を金札30両に交換する」と宣言し、布令を出します。
これをそのまま県下に触れ出すとどうなるか…。庶民の暮らしを第一に考える伊那県は、「贋二分金100両を正金100両と交換しよう」と決断します。
しかし、伊那県が庶民から贋二分金を回収していくと、その7割分は伊那県の負債になってしまいます。そこで、「伊那県商社」の設立を考案します。商社で稼いだお金で負債を償却していこうと考えたのです。
「伊那県商社」とは、贋金の回収と、それにともなって生じる負債をまかなうための組織です。商社が収益をあげられるかどうかは、預かり札もしくは後日預かり札と引き換えることを予定している「伊那県商社札」が発行され、信用があり流通するかにかかっていました。
これで負債をなくせると思っていた矢先の明治2年12月、新政府から「商社札発行禁止」の命令が下されます。商社札が発行できないということは、お金を豪農などから借りることができないということです。伊那県には負債だけが残ってしまいます。
その状況を打開しようと、オランダ商人から借金をしてしまいます。外国商人からのお金の借入は政府から禁止されていましたが、東京商社の黒野 太兵衛ら3人名義での借用を実施しました。オランダ商人は伊那県の印章を要求してきたため、県印を捺印し、明治3年3月返済の約束で借り受けることができました。
しかし伊那県印での借金は不都合があると判断し、返済を行おうとします。しかし行き詰まり、国へ納めるはずの年貢(税金)を借金返済へ充て、証書を取り戻します。その後、これらの事実が明るみとなり政府に知られてしまい、「伊那県商社事件」が発覚することになるのです。
伊那県商社事件6つの罪科とは
- 布令に背いて外国人から借金したこと。
- 布令に背いて商社を使ってニセ金を正金値段で納めさせたこと。
- 商社切手で貢租(こうそ)金を納入させ商社札を貸し付け、利金で商社切手を引き替えると約束するなど、商社人に大きな損失を与え、貢租金の上納を遅らせたこと。
- 県庁のニセ金を、商社を使って正金値段で引き替えたこと。
- ニセ金を区別せず(銀台・銅台)、ずさんな扱いをしたこと。
- 官員の専断で貢租金を商社へ貸し付けたこと。
北小路知事は罷免され、県官7人も謹慎処分に処されました。これが「伊那県商社事件」といいます。
伊那県=『御一新』実現の場
事件の取り調べが進むと、北小路 俊昌を含む主要官員は有罪となり、失脚します。
しかし伊那県創県期のリーダーたちにとって、寄り添うべきは政府ではなく民衆であった、ということを物語っているエピソードでもあります。
贋二分金問題に端を発した伊那県商社事件は、明治3年夏から秋にかけての、創県期の主要官員の失脚や、その後の中野県分立で政治的決着がつきました。
『民衆のための世直し』を夢見た伊那県の壮大なチャレンジが終わることとなるのです。
信濃全国通用銭札
伊那県鑑札
伊那県布令書
明治維新という大変革
伊那県のその後は…
明治3年9月17日
南北に長かった伊那県が二分され、北は中野県(154,472石)、南が伊那県(168,634石)となる
明治3年10月
永山 盛輝が伊那県大参事(知県事に次ぐ地位)となり、以後県政運営の先頭に立つ
明治4年6月
中野騒動により長野村(善光寺門前町)へ県庁が移転
明治4年7月
廃藩置県の詔が出される
明治4年11月
府県統合、伊那県の終わり
信濃の伊那県は筑摩県に、三河の伊那県は額田県に統合された
国の形づくりをするということと、庶民に寄り添うということ、どちらを取るのか…。
かつての飯島陣屋は約190年もの間幕府の代官役所として、一面では封建時代の象徴として伊那谷を統治してきました。
伊那県は3年3ヶ月ほどの短い期間しか存在しませんでしたが、近代国家へ変わっていく混乱と激動の時代を、「住民本位の行政」を行うという信念を持って生きてきた役人たちがいました。こうした人々が飯島にいたことは、誇れることなのではないでしょうか。
参考文献
- 長野県『長野県史 通史編第7巻近代1』長野県史刊行会、昭和63年
- 飯島町誌編纂刊行委員会『飯島町誌下巻 現代・民俗編』飯島町、平成5年
- 宮下 一郎『飯島村史(復刻版)』名著出版、昭和49年
- 中村 文『信濃国の明治維新』名著刊行会、平成23年
- 高木 俊輔『飯島陣屋ブックレット 伊那県時代』飯島町歴史民俗資料館、昭和41年
- 高木 俊輔「明治初年伊那県政について-その官員構成に関する考察-」(『信濃』第28巻-8)
- 中村 文「尾張藩取締役所と伊那県―尾張藩の役割をめぐって―」(『信濃』第43巻-2)
- 青木 隆幸「伊那県商社事件顛末記(上)」(『信濃』第65巻-5)
- 青木 隆幸「伊那県商社事件顛末記(下)」(『信濃』第65巻-7)
- 『国史大辞典 第1巻』吉川弘文館、平成2年
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更新日:2020年04月01日