2026年4月18日「県庁めぐりウォーク」

更新日:2026年04月24日

県庁巡りウォーク出発

4月18日、飯島陣屋にて、「明治の信州 県庁めぐりウォーク」の出発式がありました。

このイベントは、長野県発足150周年、飯島町発足70周年を記念して町民の体力向上及び歴史学習・社会教育振興を目的として、明治初期の信州の「県庁」跡をめぐるよう、飯島町を出発し、松本市、長野市を経由して中野市まで歩きます。

唐沢町長は、「伊那県時代の贋金(にせがね)問題の汚名を返上する」と意気込んで、長野県知事への書状を携えて歩き始めました。

伊那県時代の贋金(にせがね)問題とは

【あらすじ】
江戸幕府が倒れ、時代は明治となった。

江戸幕府の代官役所だった飯島陣屋は、明治政府によって伊那県の県庁とされ、江戸時代の悪政を改めて住民本位の行政を確立しようと、「御一新」を合言葉に改革を進めようとしていた。

しかし、明治2年(1869年)、早くも難題が立ちはだかる。

県下に、「二分金」という金貨の贋金(チャラ金)が大流入したのだ。

贋金の噂が広まると、県下の経済は大混乱に陥り、村人たちは各地で暴動を起こし始めた。

政府は、このとき贋二分金100両を政府発行の紙幣30両と取り替えると発表した。
つまり、3割の価値しか認めないという。

これでは贋金を抱えた民衆が大打撃を受けることになる。
そこで、伊那県はあえて政府の命令を破り、等価交換に踏み切った。

近代国家の樹立を急ぐ政府と、庶民の暮らしに直面する伊那県との違いが浮き彫りとなる。

伊那県は村が県に上納する租税金を贋金で納めさせ、庶民の手元から贋金を吸収していった。
しかし、県はその租税を国に納めなければならない。

政府が贋金に認める価値は3割だったため7割分を伊那県が負債として背負い込むことになり、その補填が必要になった。

打開策として、伊那県は「伊那県商社」を設立した。
「商社札」という手形を発行し、今後商社が利益をあげることで損失を補おうとした。しかし、折しも政府によって手形の発行が禁じられる。

窮地に立たされた伊那県は、政府が厳しく禁止していた外国からの借金に踏み切ったが返済の見込みがなく、結局県の租税金を流用してその返済に充てた。

贋金の等価交換、外国人からの借金、租税金の流用…。

政府の命に背いてまで庶民の不安を解消した伊那県だったが、明治3年(1870)5月、政府から査察官が乗り込み、取り調べが始まった。

その結果知事をはじめとして県政の中心人物は軒並み失脚した。

庶民のためを思った伊那県の御一新は、あろうことか政府によって頓挫させられることとなる。
政治は庶民の犠牲を強いても国づくりを進めるべきか、庶民の暮らしを第一に考えるべきか。

飯島を舞台に起きた明治初年の出来事は、今に通じる示唆に富んだ史実である。

 

飯島町生き粋出前講座資料より

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