飯島陣屋【施設紹介・利用案内】

更新日:2024年09月10日

現在、縄文カードについて多くのお問合せがありますが、配布場所は「飯島町陣嶺館(事前予約制)」です。「飯島陣屋」ではありませんので、ご注意ください。

(陣嶺館の見学申込先)飯島町教育委員会事務局 生涯学習係 電話番号:0265-86-3111

信州飯島陣屋

平屋の木造の建物の前に砂が敷かれ、中央の入り口両脇の柱に提灯が下がっている写真

江戸時代のお代官様の役所・明治時代はじめの県庁
飯島町歴史民俗資料館「飯島陣屋」
郵便番号399-3702 長野県上伊那郡飯島町飯島2309番地1
電話番号:0265-86-4212

開館時間

午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)

休館日

  • 月曜日
  • 祝日の翌日(土日にあたるときは開館)
  • 冬季(12月15日から3月14日まで)

休館日に見学をご希望の場合は、3日前までに飯島町教育委員会事務局へ予約をすることで開館いたします。お気軽にお問合せください。

令和6年度 飯島陣屋開館カレンダー(R6.9.10現在)(PDFファイル:95.7KB)

入館料

  • 一般:300円(20名以上の団体は1人当たり250円)
  • 高校生及び18歳未満の子ども:無料(令和2年7月1日より、全国の高校生及び18歳未満の子どもの入館料が無料となりました。)

飯島町陣嶺館と共通券です。

かまどでご飯を炊いて食べよう!

電気やガスがなかった時代の調理体験ができます(あらかじめ予約が必要です)

新型コロナウイルス感染状況において対応に変更がありますので、あらかじめご確認ください。

注意事項

  1. 休館日の見学をご希望の場合は、3日前までに飯島町教育委員会事務局(0265-86-3111)へご予約いただければ開館いたします。お気軽にお問合せください。(受付時間 平日午前8時30分~午後5時15分)
  2. 5名以上での来館をご希望の場合は、来館希望日の3日前までにご予約をお願いいたします。
  3. 一度の受け入れ人数に限りがあるため、団体でのご見学をお考えの場合は、お早めに飯島町教育委員会事務局又は飯島町歴史民俗資料館・飯島陣屋(0265-86-4212)へご相談下さい。
  4. 状況により、急きょ臨時休館となる場合がございます。あらかじめご了承ください。

ご協力をお願いします

  1. 体調がすぐれない方は、来館をお控え下さい。
  2. 各自による水分補給以外の飲食はご遠慮ください。

飯島陣屋だより

飯島町歴史民俗資料館・飯島陣屋では、『飯島陣屋だより』を隔年発行しています。
歴史民俗資料館のこれまでの様子やできごとを知ることができます。

(注意1)飯島町役場西庁舎の教育委員会でも無料で配布しています。

(注意2)お配りできる『飯島陣屋だより』には限りがございます。あらかじめご了承ください。

飯島陣屋だよりNo21(2024)

表示している画像はサンプルです。次のリンクよりダウンロードしてご覧下さい。

飯島陣屋とは

飯島陣屋は、主に伊那谷の天領(江戸幕府の領地)を治めた代官の役所です。江戸時代が終わると、明治政府によって「伊那県」が創設され、その県庁にもなりました。明治時代に取り壊された建物を、発掘調査や古文書に基づいて現地で再現し、公開しています。楽しみながら、くつろぎながら、地域の歴史文化を学ぶことができます。代官気分で、ぜひ、ご来場ください。

玄関、関、台所、湯呑所、などの部屋の間取りを建物の上から見たイラスト

飯島陣屋 見取図

復元された飯島陣屋の様子

飯島陣屋を正面から写した外観写真
裃を着て、ちょんまげのかつらをかぶった男性がひじ掛けにひじを置き、御膳台が置かれた和室に座っている写真

代官気分を満喫できます

天井から吊り下げられたやかんが火に掛かっている囲炉裏の前に女性二人が正座をして座っている写真

雰囲気満点のいろりでゆっくり

和室に置かれた机に座りそろばんをはじいている女性をもう一人の女性が覗き込んでいる写真

展示物は手にとってご覧いただけます

展示品のごく一部「伊那県」時代の資料

鑑札、布令書、信濃全国通用銭札などの資料写真

この他にも展示物等たくさんありますので、ぜひ実際にご来館ください。

アラカルトトーク ~村人にとっての陣屋、そして役人~

陣屋の機能を今の役所になぞらえてみると、幕府の財源となる年貢を取り立てる「税務署」のほか、村人の平穏な暮らしを保つべき「市役所・町村役場」「警察署」「裁判所」など…
ただ、今の役所と違うのは、「ははぁ〜」とひれ伏す、あの感覚ではないだろうか。現代にも名残がないとは言えないが、江戸時代人の「お上」の意識は、我々の比ではないだろう。現代人の感覚ではなんとなくわかりにくい「村人を支配する幕府代官の役所」。
村人たちはこの陣屋に対してどんなイメージを持ち、どんなふうに役人と接していたのだろう。

室内の一角に座って書き物をしている男性役人の後ろ姿を写した写真

酔っ払って陣屋へ乱入

文政11(1828)年正月、飯島陣屋のお膝元の石曽根村で、こんな騒ぎが起こった。

年始の挨拶のため町方に出てきた庄三郎。あちこちで酒を飲んで前後をなくし、なんとお陣屋へ入り込んで不埒なことを申し上げてしまった。お陣屋では、「酒狂のこと」と、格別のお叱りはなかったとはいえ、村としてはそのままで放っておけない。
これまで村内でも酒を過ごした者は多いが、よりによって陣屋へ乱入するなど前代未聞。村役人は、「そもそも庄三郎は日ごろから心がけが悪く、物事横着でお上を大切に考えていないからだ」と、きつく叱り、組合総代も連判した詫び状を出させた。

陣屋ではお咎めなしとのことで、役人も堅物ばかりではなかったらしい。ただ、村人にとって、陣屋という場所は気安く入れる場所ではなかった。

隠匿、虚偽報告

天保5(1834)年3月、七久保で行き倒れがあった。村役人たちが調べたところ、その者は松前藩の浪人で、今は占い師の姿になり、金毘羅参詣の途中だったらしい。
いろいろの書物を持っているが、それを陣屋から来る検使役人に申し立てるのは面倒だ。そこで、書類のことは残らず隠しておき、陣屋へ検使をお願いした。さっそく手代の木村様が出役になり、首尾よく検使がすんだ。宿では酒を出し、後日陣屋へ謝金を届けた。

こうして、村側は面倒なことは隠したまま一件を片付けた。事実を隠して報告するという手は、村ではしばしば使っている。

文化5(1808)年10月、飯島町と石曽根村の村役人たちは、庄福寺での賭博の現場に踏み込んだ。飯島町の1人をその場で差し押さえ、他の者は取り逃がしたが、その者に白状させ、逃げた3人が中沢村と上穂村(ともに現、駒ヶ根市)の者とわかった。それ以外に石曽根村・飯島町の6人の立会人、4人の見物人がいた。
飯島町・石曽根村では、彼らから過料を取って内々に済ませることにし、陣屋へはなんと事実とはまるでちがう、次のような報告をおこなった。「山久林で明かりが見えたので村役人たちが行ってみたところ、4〜5人が灯火を消し、金子や脇差を捨て置き逃げ去った。顔かたちはわからなかった。」その後、陣屋から「覚えのある者は申し出よ」と高札が立てられ、村々に廻状が回ったが、村では黙秘を貫いた。
翌文化6年1月、陣屋から、博奕場に残されていた脇差や衣類を払い下げるとの触れが出た。しかし入札希望者はなく、飯島町で銀40匁3分を出して引き取った。博奕に使われた賽16個と小間板556枚は「打ち砕き」が命じられた。博奕場に置き去りにされていた金12両3分2朱は、陣屋が没収した。

「顔かたちはわからなかった」という村役人の報告を陣屋役人が真に受けたものかは怪しい。しかし、その後の展開の中でも、陣屋のお膝元にもかかわらず村人は結束を固くし、秘密を守り通した。

役人への礼金

天保5(1834)年7月、七久保をうるおす横沢用水路の御普請所(工事に際し、領主が扶持米などを出すと指定されている場所)が大破した。
修復のため陣屋に「御普請願い」をすれば、代官をはじめ手代や下役らへの謝礼が10両余りかかる。修復は5両ほどでできそうなので、御普請所ではあるが村の経費でやることにした。

この例と同様に、陣屋にお願いした場合にかかる礼金の額と、お願いしない場合の損得をあらかじめ見定めることは、ことに不作の秋、村にとって一大問題だった。
享保年間以降、村に課せられる年貢額は、過去数年間のデータをもとに、その後数年間は一定額とされていた。だからちょっとしたことでは「お年貢をまけてくださいまし〜」とはいかなかった。しかし、天災によって田に3割以上の損害をこうむった場合、実地検分の上で減額が認められた。

凶作だった安政4(1857)年、飯島町・石曽根村では、陣屋へ年貢減免のための検分願いを差し出した。これを受けて陣屋役人による検分が実施された。
終了後の清算書を見ると、役人たちへの礼金に合計10両余、賄いに1両余を出費している(表)。ほかにも、検分に必要な立札や紙、むしろなどの費用がかかった。

安政4年、破免入用のうち謝礼・接待費(飯島町・石曽根村)

元締様

金4両

関様(手付)

金2両

山崎様(手付)

金1両2分

中田様

金2分

御用心3人

金3分

升取

金1分

中間3人

金1分2朱

関様小者

金3朱

武助様

金2分

竹松殿

金3朱

山崎様小者弥助殿

金2朱

御賄い入用

金1両1分

諸入用

金3朱

合計

金11両3分1朱

(注意)金1両=4分 1分=4朱

これだけ出費しておいて、検分の結果被害が3割に至っていなければ、年貢の減額が認められず、村は大損害となる。文政8(1825)年、石曽根村ではいったん検分を申請したものの、やや気候が持ち直したために急きょその取り消しを願い出たのは、そうした事情からだ。

接待は当たり前

享保14(1729)年は、前年の不作の影響で年明けから飢人が続出した。手代の中野角右衛門は3月1日、飢人検分として赤須6ヶ村(現駒ヶ根市)を巡視したが、その日村に泊まる手代に対し、村では次の品々を購入し、酒肴を用意した。

  • 大鯔1本
  • 小鯔2本
  • 鯉1本
  • 豆腐2丁
  • 蒟蒻3丁
  • 酒1升5合
  • 麦粉
  • 干瓢2把
  • 玉子8個
  • 酢1合

食べる物がない村人の様子を調べに来た役人が、本当に酒や肴でもてなされたとすると驚きだ。

天明2(1782)年、代官平岡彦兵衛は、村廻りに先立ち、「宿泊先では、ところ有り合わせの野菜を使った一菜一汁のほか決して馳走がましいことをしてはならない。昼食も弁当を持参するので用意には及ばない。このように申し渡す上、なおも世話を焼くようなことがあればきつく咎め申しつける。」と触れた。

代官への接待は当たり前だったからこそ、わざわざこのような触れが出たのだ。

地元村人の負担

年不詳ながら、陣屋地元の飯島町・石曽根村が、陣屋の維持管理などのため、1年間に負った人的負担の書き上げがある。

  • 年貢金が江戸へ送られるまでの間その番をする人足…60人
  • 年貢金は10・11・12月の3度に分けて取り立てられ、江戸へ送られた。
  • 御陣屋掃除、雪かき、施設を修理する職人の手伝い、文書を各地へ回送するための人足…243人、馬…23頭
  • 御役所四方の夜回り番…3,600人(一夜10人ずつ)
  • 御役所御用物守護の馳せ付け(駆けつけ)人足…12人
  • 御役所火消し人足…40人

役人の留任願い

安政5(1858)年8月に飯島陣屋へ赴任してきた手付の中村忠右衛門は、何かにつけて村人への嫌がらせをたくらみ、賄賂をむさぼる時代劇さながらの悪人だった。中村に散々苦しめられた村人たちは、ついには彼の退役を奉行所に願い出るに至る。一方、逆に村人から慕われた役人がいたことも事実だ。

文久3(1863)年、村々は丁重な文面で、新しく飯島代官に就任することになった黒川嘉兵衛に嘆願書を差し出した。「このたびお代官様が交代されるとお聞きしました。2年前から飯島詰だった手代の坂田芳助様と清水順造様は、全て適正なお取り計らいで、訴訟事を願い上げても不公平なく速やかに片付き、たとえ閉庁後でも村々から御用筋で罷り出たなら再び出勤してくださり、村々に無用の出費が生じないよう苛法を厭い、万端簡易のお取り計らいで村々一同信頼しています。新しいお代官様のもとでもどうかこのお2人の御支配をこうむりたいと存じます。」と2人の手代の留任を願った。

10行の縦書きで書かれてある嘆願書の写真

手代留任嘆願書(部分)

この嘆願の裏には、この年まで6年間で四度も代官が交代し、その時々で出費がかさんで仕方がないので、手代2人が留任すればその分の費用が浮くというもくろみもあった。ただ、2人の手代が有能でなければこんな嘆願にはならなかったはずだ。

飯島陣屋ブックレット

お役人—代官・手付・手代たち—改訂版の表紙写真

陣屋がよくわかるお値打ちなシリーズです。

お役人—代官・手付・手代たち—改訂版

西沢 淳男 著(高崎経済大学准教授)
A5判 36ページ 300円

江戸幕府の直轄領を統治した代官、そのもとで実務を担当した手付や手代たちについて解説。飯島陣屋に限らず、幕府領直轄領一般の「お役人」について、職務内容、支配地への赴任の様子、昇進の実態など、その実像に迫る。

伊那県時代の表紙写真

伊那県時代—飯島陣屋から伊那県庁へ—

好評につき品切れ

高木 俊輔 著(立正大学教授)
A5判 34ページ 300円

クイズです…現在長野県と呼ばれる信濃で、最初に県庁が置かれたのはどこでしょう?…答えは、飯島町。明治元年8月、旧江戸幕府の飯島陣屋を明治新政府が「伊那県」の県庁とした。幕末の陣屋支配、伊那県の成立、中野県の分県、そして廃藩置県・府県統合によって筑摩県へ移管されるまでを描く。

飯島陣屋ブックレット『伊那県時代-飯島陣屋から伊那県庁へ-』は好評につき品切れとなっています。以下をダウンロードしていただくと、お読みいただくことができます。

江戸幕府の天領の表紙写真

江戸幕府の天領

好評につき品切れ
村上 直 著(法政大学名誉教授)
A5判 32ページ 300円

天領(江戸幕府直轄領)研究の第一人者である村上直氏が、全国的な観点から天領を捉える。天領の設定と存在意義、天領の開発と代官頭、関東と畿内の天領、天領の地域的分布、天領と代官支配、幕府の職掌分化と代官、代官と遠国奉行などについて解説する。

飯島陣屋ブックレット『江戸幕府の天領』は好評につき品切れとなっています。以下をダウンロードしていただくと、お読みいただくことができます。

信濃の天領陣屋の表紙写真

信濃の天領陣屋

好評につき品切れ
飯島町歴史民俗資料館 編
A5判 42ページ 300円

江戸時代、信濃に設置された幕府代官の陣屋の数は35ヶ所にのぼる。これらは今でいう行政改革で徐々に統合されていき、江戸後期には4ヶ所の陣屋が信濃の天領支配の核となった。信濃の天領陣屋がどこに置かれ、そこを中心にどんな施策が実施されたのかを分かりやすく解説する。

飯島陣屋ブックレット『信濃の天領陣屋』は好評につき品切れとなっています。以下をダウンロードしていただくと、お読みいただくことができます。

陣屋があった江戸時代の表紙写真

陣屋があった江戸時代

飯島町歴史民俗資料館 編
A5判 36ページ 300円

江戸時代、ご先祖様はどんな暮らしをしていたんだろう…小学4年生の「飯島陣矢くん」の素朴な疑問に、お父さんが次々と答えていく。陣屋があった時代=江戸時代の、人の姿、食事、明かり、景色、家、子供など、対話形式で話が展開し、小学生から大人の方まで楽しく読める。

飯島町歴史民俗資料館・飯島陣屋の窓口でお求めになれます。
飯島町教育委員会事務局でも取り扱っています。
送本をご希望の場合は、以下へご注文ください。(別途送料が必要です)
郵便番号399-3702 長野県上伊那郡飯島町飯島2529
飯島町教育委員会事務局 生涯学習係

飯島町誌

飯島町の成り立ちを知る基本書です。

  • 飯島町誌上巻(自然、原始古代) 4,000円
  • 飯島町誌中巻(中世、近世) 4,500円
  • 飯島町誌下巻(近現代、民俗) 4,500円
  • 3巻セット価格…10,000円

飯島町教育委員会事務局でお求めになれます。
飯島町歴史民俗資料館・飯島陣屋の窓口でも取り扱っています。
送本をご希望の場合は、以下へご注文ください。

送料

  • 上巻600円
  • 中巻800円
  • 下巻800円
  • 2冊の場合1,000円
  • 3冊の場合1,200円

郵便番号399-3702 長野県上伊那郡飯島町飯島2529
飯島町教育委員会事務局 生涯学習係

机の上に3冊の飯島町誌が立てて置かれ、2冊が中身が開いた状態で置かれてある写真

お代官様からのクイズ

ちょんまげをしたお代官様が正座をして座っているイラスト

拙者は蓑 笠之助(みの・かさのすけ)。

生まれも育ちも江戸でござる。

この度飯島代官を拝命つかまつり、この飯島へ参ったのじゃが、みなみな面白い言葉をつかっておる。そこで、江戸では使わぬ「飯島言葉」のクイズを出題申そう。

おのおのがた、どういう意味かおわかりかな?

問題 とんでってくるでな

答え 走って行ってくるからな

問題 また、ごたやっとるんずら

答え またデタラメやってるんだろう

問題 しょじょくなってくれんかなーし

答え しゃがんでくれないかなぁ

問題 おやげねぇことで

答え 気の毒なことで

問題 おどけた

答え 驚いた

問題 おいでなんしょ

答え お越し下さい

問題 おとーま、おびっちょだにー

答え お父さん、お風呂ですよー

問題 みやましいおばーまでおありるなん

答え よく働くおばあさんでございますねぇ

問題 よくしとなったもんじゃんかな

答え よく成長したものじゃないですか

問題 ずくだしてくれやれ!

答え 精をだしてやってくれよ!

さて、何問できたでござるかな?

この記事に関するお問い合わせ先

飯島町教育委員会事務局 生涯学習係

〒399-3702 長野県上伊那郡飯島町飯島2529番地
電話番号:0265-86-3111(代)
ファクシミリ:0265-86-5596
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